MEにより学校に行けなかった中学時代に私を救った親の言動と行動

中学時代は筋痛性脳脊髄炎(以下ME)の症状が最も苛烈で、その結果学校に通えず、いわゆる不登校になりました。

不登校と言われる状態になって一番大変だったのは、何か悪いことをしてるような気分になり、常に後ろめたさを感じること。

好きな学校に、行きたいのに行けない。でも行けないことで、サボりや怠けと後ろ指をさされる矛盾に満ちた生活で、理不尽な思いをたくさんし、精神的にかなり追い詰められました。

Cherry Blossoms at High School

しかし当時からME疑いのある母は身体の状態も、慢性病患者として生きる大変さもよく知っていて、大きな支えとなってくれました。母の言ってくれたこと、起こしてくれた行動のおかげで救われたことが何度もあります。

当記事では、母のしてくれたことで特に印象に残っている出来事を、いくつかまとめたいと思います。

不登校児は家から出てはいけない

学校に通えなくなってからしばらくして、週末にどこかに出かけた話をすると、同級生や学校の先生によく言われたのが、「学校には来れないのに、遊びには行けるんだね」「昨日は本屋で楽しそうにしてたのに、今日は学校に来れないんだ」などです。

言われるのが一度や二度なら、何とも思いませんが、普段あまり会話もしたことないような人から言われることもよくあり、「学校に通えない者はどこにも出かけちゃいけない」と心のどこかで思うように。そして次第に、出かけるときは強烈な罪悪感を覚えるようになりました。

またあるときは、庭の掃除をしているところを同級生に見られたらしく、「この前、庭で遊んでいたよね。なんでいつも学校にこないの?」と言われたこともあります。

たとえ休日に庭に出ただけでも、学校に行っていないことを不思議に思われます。そんな環境にいると、年中家の中で息を殺して静かにじっとしているしかありません。

こんなこともありました。中学1年のある日、何年ぶりかに父と兄の3人でプールに行きました。プールは楽しかったのですが、問題は次の日、プールの消毒薬で全身皮膚が赤くなってしまったことです。

その時に真っ先に心配したのが、プールに行ったことを学校の誰かにバレること。遊びに行ったことを、また誰かに非難されるのではと思いました。

体のかゆさや、不快感より、周りの人の心ない言葉のほうが恐怖でした。

24時間365日、痛みや猛烈なだるさなど、多くの症状と闘う闘病生活はただでさえストレスが多いです。それに加えて自宅の庭にすら満足に出られないのは、本当に息苦しい状況でした。

母の行動

そんな生活の中、母は天気の良い平日の昼間、時々ドライブに連れて行ってくれました。

家から3キロ圏内だと誰か(同級生の親など)に見られる可能性があるため、隣町や10キロ以上離れた公園などに行きました。

Park Out of 3km Radius

3キロ圏内を出るまでは車のシートを倒したり、毛布を被ったりして誰にも見られないように細心の注意を払って行動してました。

外出先ではRCカーで遊んだり、当時飼っていた犬を散歩させたりもしましたが、ただ車から外の景色を眺めるだけでも、息が詰まりそうな毎日から逃れられる貴重な時間でした。

Yokomo MR4BC at the Park

もちろんMEの特徴である、行動のあとのツケは必ずひどい頭痛、吐き気、目眩、体温調節不良、高熱などとなって払わなければなりませんでしたが、それでも生きた心地のするささやかなひとときは、闘病・学校生活のストレスをかなり軽減してくれました。

段ボールサンドバッグ

私は中学の頃はまだ「筋痛性脳脊髄炎」の診断は受けていなかったものの、「起立性調節障害」の診断があり、学校にはその旨を知らせてありました。

しかし残念ながら、私の中学では病気は根性で治ると思っているか、全く関心のない先生が多かったです。その中でもある先生が特に無理解で、学校休んだ日は家に来て「甘ったれ」「怠け者」「根性なし」など暴言を吐いていきました。

その先生に無視されるのは日常茶飯事でしたし、宿題が出されたことを知らずに学校に行くと、サボりとして他の生徒の前で叱られたこともありました。(学校を休むとよく家に来たのに、連絡プリントを持ってきてくれたことは一度もありません。)

当時はこの先生に何を言われても、この先生のやることなすことが全て意味不明過ぎて、何も言い返すことはできませんでした。

言葉に出来ないもどかしさはイライラとなり、そのストレスでますます体調が悪くなりました。

母の提案

Sora in a Cardboard Box

そんな様子を見ていた母から「段ボールをボッコボッコにしてみたら?」という、提案を受けました。

「それは名案!」と早速、殴りやすいように段ボールと牛乳パックを高さ130センチくらいに積み上げ、サンドバッグのような物体を作りました。

完成したサンドバッグは高さ、形がちょうどいい感じになり、せっかくなので先生に見立て、大声で叫びながら、気の済むまで叩き蹴り踏みました。

当時PS7から8(中程度〜重症)のME患者だった私にとって、身体への負担は大きかったです。頭痛はひどくなり、目眩がし、心拍数も上がりっぱなしでした。しかし、そんな身体の状態にも関わらず、心はすっきり軽くなりました。

次に学校に行ったとき、先生の顔がボコボコの段ボールサンドバッグと重なり、笑いが止まりませんでした。

この一件で、自分の中にあった言葉に出来なかった先生の無理解に対する怒り、サボりと決めてかかる大人たちへの不満に何となく気づくことができました。さらに、そうい
った気持ちを母が理解し、受け入れてくれたことが嬉しく、また母がいつでも自分の味方でいてくれることを感じました。

そして実際に段ボールをボコボコにしたことで、やり場のない怒りを表に出すことができ、気持ちがかなり落ち着きました。その後、サンドバッグを作ることは一度もありませんでした。

家族以外の人との貴重な時間

中学の時、うちではヤクルトの宅配を週に一回とっていました。来てくれていたヤクルトレディーがとてもいい方で、平日昼間に家にいても、「学校はどうしたの?」と聞かれたことは一度もなかったです。そして、いつでもちゃんと目を見て話し、体調が悪くてひどい滑舌でも話が遅くてもちゃんと聞いてくれ、一人の人間として接してくれました。

会っても話す内容は大したことはなく、学校の話、日常の話だったと思います。それでもヤクルトレディーが来る日は本当に楽しみでした。

それから当時、冬になるとはるばる秋田からやってきていた焼き芋のおじさん。

おじさんに体調が悪くて学校に行けないことを話すと「人生長いからいろいろあるさ」と言って、「いつも頑張ってるご褒美に」と、ちょっと焦げ目のついた焼き芋をおまけしてくれました。「怠け者」「サボり」「根性なし」と言われ続けていた私にとって、学校に行けなくても生きているだけで「頑張っている」と言ってもらえて、心底嬉しかったです。

おじさんとも話すことは、天気の話、年賀状の話、体調悪くてなかなか学校に行けないことなど、日常のありふれたことばかりでした。

(話は逸れますが、おじさんの焼き芋は本当に美味しく、人生でこの先おじさんの焼き芋を超える芋に出会える気がしません。)

「不登校児」ではなく、「人」として扱ってくれる・否定しないで人の話を聞いてくれる、彼らのような存在が家族以外にあったということが、私にとって大きな救い、そして未来への希望になりました。

「勉強しなさい」と言わない両親

闘病している中学生として一番ありがたかったのは、両親が「勉強しなさい」と言わないことでした。

勉強しなくちゃいけないことは本人が一番よく分かっています。ただでさえ学校に通えず、同級生より勉強がかなり遅れていることは常に自覚していました。

そのため、めったにない体調のマシな日にまで勉強しなさいと言われると苦しかったと思います。やはり中学生、遊びたい盛りですし、やりたいことがたくさんありました。闘病生活でやりたいことを我慢し続けている生活で、勉強以外してはいけないと言われたらつらかったでしょう。

それだけではなく母は私がやりたいということは、何でもやってみることをすすめてくれました。RCカー、PCゲーム(信長の野望)、自転車の整備、愛犬と外で遊ぶことなどなど。

Chao in the Garden

確かに何もしないで家の中でじっとしている方が体は楽でしたが、体調を崩してでも遊んだことで、どんな体調でも自分を楽しませる方法を身につけることが出来たと思います。その工夫は今の闘病生活でも生きています。


中3の時にハマったPCゲーム「信長の野望」は、遊びすぎて受験勉強の時間がかなり短くなりました(さすがにその時は「少し勉強した方がいいんじゃない?」と言われたほどです。)

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しかし、ゲームをきっかけに戦国史を調べるようになり、たくさん本を読み、歴史に詳しくなりました。それまで学級文庫を読まされて泣くほど大嫌いだった読書も得意に。後々に洋書を含めて年間100冊を読破するほどの読書好きになるとは、人生分からないものです。

また当時、ゲームをやるために培ったパソコンスキルは、現在、ブログ運営やオンライン英会話講師の仕事に大いに役立っています。

まとめ

Shoots of Field-horsetail

見た目では症状が分からないME患者は、毎日どれだけ激烈な症状と戦っているかは本人にしか分かりません。

その症状のつらさを伝えるのは言葉しかありませんが、当時の私は上手く言葉に出来ない上、その言葉を信じてくれない大人ばかりで、中学生活は本当に大変でした。

私が体調のマシな日に遊んでいると、母はよく「遊べるくらい体調良くなって良かったね」と言ってくれました。いつでも出来た事実を一緒に喜んでくれたことが、私にとって安心感につながりましたし、もっと良くなって遊べるようになりたい、と体がどんなに痛くても、きつくても耐えることが出来ました。

人生は続きます。

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